◎第3部 「学習論」 ブログ3 「探究・統合・活用」

今日のブログ:学習論「学習の道筋」について考える3

  その後編 「探究・統合・活用」

 

・・前回からの続きです・・(番号もその順です)

さてここで・・~「ブログ「第3部」を始めるにあたって」(その思いの続き)~

  今年古希を迎え、人生のほぼ終了期の始まりとなりました。古代インドでの区分けでは、古希は、林棲期(家庭・仕事の暮らしを引退し森で暮らす時)から遊行期(人生の最後の旅)に向かう齢だそうです。現代の平均寿命からすると古希はまだ未練がある歳で、私も人生を悟ることはないのですが、そろそろ限界点が来るだろうとは思っております。

そこで、これまでの仕事の一定の整理をしようとの思いで「ブログ」を始めました。この中に自分の思考・実践したことを書くことで、もしかして後世の人に何かの役立つことがあれば幸いだとやや純粋に思えるようになってきました。

もし、このブログの内容を40歳台で把握していれば子供に伝授できたのですが、60歳台にやっと体系立てた叙述が可能となってしまいました。孫達に直接に「面授口説」で伝えたいと思うのですが、まだその歳にはなっていませんし、孫達がその歳になった時には私の方が怪しくなっています。そこで仕方なく「文授筆説」(?)としての「ブログ」ということになり、また、伝える人も孫世代の子供や彼らを導く親や指導者の多くの方にも拡げたいとも思うようになりました。

「ブログ」は提示する方も受け取る方も、互いに意見も感想もなしという状態にすることで、自由な関係が保たれるようです。本やCDなどでは、双方の関係が明確で押しつけがましくなります。(時には本をお渡しますが双方自由な関係は要りますね・・この紙をお渡ししても同様です) 

もしそういう自由な関係で、このブログを読まれようとする方は次のアドレスに来てみてください。

・「goldenhillweb.wordpress.com」・・Googleです

   「思考力入門」(「学習論」「組織論」)です

なお、読みやすいのは「第3部」からです        金岡(goldenhill)より

 

「学習論」・「組織論」への思い (ついでに~大人の人に~)

「学習論」では、学習を進化させていわゆる頭の賢い世代を育成したいとの思いが基本にあります。それは、いわゆる「できる子」を作りたいという勉強法と近いものとなりますが、本当のねらいは少し違います。

「組織論」では、「成熟市民社会」を希求し、そこでこの社会を担う市民・国民の条件を検討しますが、ここで、組織論と学習論が合体します。

20世紀初めの「競合市民社会」なら、競い合いが社会を進化させましたが、と同時に、競合が最終的な戦いである戦争にもなりました。互いに競い合うことは個々の生存保証として人のプログラムに組み込まれているのでそれを否定することはできませんが、その競い合いが双方の破滅につながることは阻止しなければなりません。幸いにも、21世紀「成熟市民社会」となった現在、その競い合いが共存型になる条件も整ってきました。「知的資源が優位、その知育の機会が拡大、知的有能者が増加」という条件のもとでは、「物的資源」の奪い合いは緩やかになるだろうし、その激化の回避も知的有能者の情報連携で防げるでしょう。またそれでも残る自己認知欲求は、成熟市民社会での多様な参加形態が可能となることで実現されることとなるだろと思います。

そうした社会的成熟度のために、学習の成熟が必要となりますが、これが「学習論」で学習の進化を求める理由です。「できる子」が互いに闘争だけするのでは、「バカな子」の平和の方がよいのですが、でも、「バカな人」では平和は実現できません。彼らはすぐに「悪い人」に騙されます。悪い人の悪さを見抜ける力がないからです。「衆愚化(ポピュリズム)」は現在に始まったことではなく、古代からずーとそうなのです。世界的(中国や日本も)なこれまでの歴史にみられるように、権力者の歪んだ権威的な説法に騙されたり、古代ギリシアのアテネのように、自ら決定者になれても「自分で考える学習」がないために多数派の勢いに飲み込まれ、ソクラテスを殺した民主派市民のようになります。(・・当時のアテネ(アテナイ)にもフィスト達の教える知識だけを学ぶ習得教育はありましたが、考える力の育成は弱いものでした・・)

現在のわが国では、誤った組織を改革する条件が整ってきています。ただし、それにはそれなりの市民・国民の成熟さが求められます。その成熟の1つが「賢い学習者」ということです。闘争を回避・昇華できる学力を持った人への期待です。

「学習論」と「組織論」とをともに思考するのはこうした理由からです。

 

◎学習プロセス・・その2『探究』 です

・・「その疑問、変えてみようよ、なるほどに!」(「広島教育の日に向けての小学生作品」より)

・・分解して確かめる段階「引き算型学習」

さて、学習プロセスの1の「習得」の学習は、とにかく知識を加えていくという学習方法です。しかし、やがて、その「加算型の学習」に限界が来ます。多くの知識や情報が入り込んで来るとその整理がないと必要な時に取り出されなくなります。必要な時に必要なものを提示できないと、まるで大きな部屋に買い物をため込んだままの「ゴミ屋敷の主人」状態となってしまいます。・・そこで、それらの分類・整理が求められます。この時の学習はため込んだものを「分解」し、不要なものを「除去」し、ポイント探し・「本質発見」をするという、いわば「引き算」的な学習となるでしょう。

○「初期分類」・・ここでは、色や形が同じとか大きさや重量が近いとかの「類推」の能力で対応できます。この「類推」も一種の引き算で、同類のもの以外を差し引いて同類のものだけを求めているのです。幼い子供でもこうしたことができますが、このままでは複雑な分類はできません。例えば、花の場合、色や形は同じでもその性質が異なっていれば植える場所が違います。日当たりを好むとかアルカリ性土壌が良いとか。食物材料では、熱に強いとか弱いとかの判断が煮物作りでは求められます。(・・実は私が煮物を作ったことないのですが・・)

 ○「発展分類」・・そこで、その事物の中身の検討が必要となります。それはちょうど、私達が食事をして食べ物を分解し、タンパク質かデンプンかに分ける作業に似ています。その後は、タンパク質もさらにアミノ酸にまで分解して検討します。

フランスのR・デカルトが数百年前に「解析学」を唱えたように、また、E・フェルミが近年「フェルミ推定」でも述べたように、ものごとはそれを細かい要素に分解して部分に分けると、そのものの仕組みが現れてきます。そうすると、その仕組みに応じての分類分けもできてきます。・・同じ魚で見た目には同じにみえても、魚の内臓機能まで分解・検討すると、海に住む魚と河に住む魚との違いが分かりますし、さらには川と海に住める魚の複雑な仕組みも分かり、より正確な分類ができます。また、磁石に付く金属と付かない金属の性質も、分子レベルにまでその構造を分解すると分かってくるのでしょう。・・(この自然科学的な探究は私の専門外なことなので深みはありませんが・・)

私の専門とする社会科学系での「組織の分類」ではその結合のあり方の分解・検討により、「利害・感情・理論」の内のどの要素が強いものかという分類ができます。たとえば、企業は利害、家族は情感、政党は理論(?)ということとなりますし、また学校でも、小学校では情感、高校・大学では理論の要素が強まるとの分析ができ、それに応じた分類ができれば組織改善にも役立ちます。・・こうした高度な分類ができると、これまで蓄積した知識を、精度の高い分類棚に整理することが可能となり、引き出しもスムーズに動くこととなり、「知識のゴミ屋敷」状態から抜け出て、いわゆる「できる人」だということとなります。 

○「仕組みのルール・法則性の発見」

こうした分類を行うことによって、私達は次第に「法則性・ルール」を理解することとなります。そしてこの「法則性」が「FW(フレームワーク)」として成立すると次の「統合」の段階となり、やがては最後の「活用」の段階となるのです。

このルールの発見では、頭の働きはまずは「帰納法」(きのう・induce)のやり方で動いています。・・帰納法とは、いろいろな事例の中にある共通の事例をつなげて一定のルールを見つけるやり方です。・・例えば、「空を飛ぶ鳥には皆共通して羽尾を持つ」とか「朝から元気な子供は共通して朝食を毎朝食べている」などや「暮・幕・墓・・に共通の草冠の下にある日は何だろう・・日が草の下に沈む・・日暮れだ・さらには隠れるということか」と発見することです。

ただし、その帰納時に、単なる「類似」だけで共通だとするのではなく、もっと分析をして、その「しくみ・構造」から理解することが重要です。それが、精度の高い「ルール」なのです。そうでないと、「海に住んでいるからイルカは魚類だ」となります。このような誤りを避けて、一定のそれなりに信頼できるルールを発見したら、それを中心にして知識を結びつけて「知の構造・しくみ」(「仮説・FW:フレームワーク」)を獲得したことになります。

この高度な分析になると、下からの分析・共通事項の分類だけでの帰納法だけでは十分ではなくなります。もっと先の結論「構造や構想」を仮説として想定しながらそこから振り返ってから最後の高度な分類をしなければならなくなります。「○○のような構造になるかも知れないなら、このような分類が適切だ」という発想が求められます。その時には、これまで仕入れた「FW」を使うこともあります。いわば、後の項目で述べる演繹法的な思考方法が要るのです。

例えば、

*1:「帰納法・分解して共通ルールの発見」・・F・ベーコンの帰納法

肉が腐らない・・「雪の中・氷の中・寒い空気」=共通=「冷温」

・・16世紀のイギリス、彼はこうした実験をしながら「冷温が肉を腐らさない」ことを発見した・・その実験での風邪が命取りになったが・・この当時は科学黎明期、まだ冷温による細胞の状態まで分析検討はできていないのです

ついでに・・彼は科学的方法を「蟻・蜜蜂・蜘蛛」に分類している。

○蟻=ただ識を集めるが整理がない状態・・知識の寄せ集めです。・・ですから、「知識の加算」=「知識ゴミ屋敷状態」となります・・

○蜜蜂=いろいろな花を廻るが、そこから「蜜」という共通項を集める・・花の中の蜜以外のものは捨てている・・つまり、「知識の分解・検討」・・「引き算的思考」・・引いた後の共通項・ルールの発見となります・・

○蜘蛛=蜘蛛が自分の中から糸を出すように、法則「FW」から蜘蛛の糸を引き出すように思考を紡ぎ出す・・でも、この思考方法では、最初の「FW」が誤っていればそのまま誤ったものが引き出されてしまい、全てが誤りとなります。この当時のヨーロッパでは、キリスト教が支配的で最初のFWは「神のFW」となってしまう心配がありました。ベーコンが「帰納法」にこだわったのもこの「神のFW」を排除したかったからです。

*2:「演繹法・FW」を使った分解の仕方・・R・デカルトの方法

もし最初に真理をつかんでいれば、そこからものごとを解いていけます。それは論理的で誤りが少ないものとなります。「冷温がものを腐敗させない」という真理が分かっていれば、ベーコンも風邪で死ぬことはなかったのです。しかも、その真理を理論的な思考で発見できれば最善の道です。デカルトはそう考えました。彼は、究極の真理を探究しそこから論理的に明確で飛躍のない思考をつなげていくいことで世界を理解しようとしました。その究極を「神」ではなく、「論理思考する私」に求めました。「われ思う、故にわれあり」の言葉は有名です。

さて、現代では科学的探究・実験や思考が積み重ねられて、多くの「FW」が発見されていますので、その「FW」を利用しての「演繹」が可能です。

例えば、それほどの科学的な「FW」ではないものの、探偵ものの犯人捜しでの「FW」では、合理的な思考で到達した「最後に得するものが犯人」という結論が成り立ち、そこから演繹して犯人を推理します。このように、結果を想定してから、その結果から逆算して推理思考するやり方は日常的に行っていますね。

・・その例・・「小学校5年生算数の平均値の求め方」・・

3、5、7、9 の平均値を求めるのに、これらを足して個数で割る方法に対して、先に結果を6と想定して、それとの差を、3(―3)、5(-1)、7(+1)、9(+3)のように計算して平均値を求める方法もあります。このやり方が逆算思考で演繹法に似ています。

「ベーコンとデカルト」(図)・・やや高度ですので中学生は理解できなくても、その後高校生になると分かるようになります。

スライド3スライド4

「説明」・・・帰納法には事例の中からの共通性の発見ですが、事例を完璧に集めることはできないので、100例集めても101例目で例外があるかも知れない不安があります。演繹法では、法則から出発するので例外は出ないのですが、そもそもの法則が誤っていると危険なのです。この2つの問題点を直観的に述べたのが孔子です・・さすがです。ですから、帰納法と演繹法は両方を行うことで正しい思考方となります。

◎学習プロセス・その3「統合」法則のまとめ「FWの結成」

・・「ルールを理解したものが、そのゲームを支配する」・・

探究によって、事物を分解しながらその仕組みの中にルールや法則性を発見すると学習はさらに段階を上げます。これは学びの段階を「現象」の学びから「本質」の発見への道といえます。・・現在では、帰納法的な思考でこのルールを見つけ出さなくても、このルールや知の構造そのものを、学校授業や書籍やネットを通して学ぶことができます。・・自然科学・理科的にはそれなりの多くのルール・法則があります。・・私は文科系なので、この領域は弱くて入れません。地理学習での「FW」のところで幾分か自然科学的なことを述べますが、その程度ですので、ここは、それなりの科学や理科の専門家の人や先生に学んでください。・・

文科系的には、歴史事例から多くの「FW」を学ぶことができますし、「四字熟語」などや「短歌・俳句」などは文科的思考の「FW」のかたまりといえるでしょう。

・・例えば「面従腹背」には、強いものに逆らえないときには従ったフリはしているが、心(腹)の中では背いているのだという人間心理のルールがあります。また、「一月三舟」という言葉には、月は一つでも舟の動きが異なればその動きによって3様にみえる・・という深い言葉(仏教用語)もあります。私達は、1つの「事実」でもそれぞれの立場で受け止め方「解釈」が違いますね。そんな現実をこの用語で理解できます。このように、「FW」を多く持てば、文科系・社会科系でも推理力が増すのです。

この時に、最重要なのがこの「FW・知の構造」という本質まで学びを至らせるということです。でも現実には、多くの生徒・学生がこの時の本質理解をサボってしまい、その後の学力が伸びない状態となっています。・・それが先の「Aさんの失敗」です。

さて、こうした「FW」をたくさん持つと、それを高度な理論整理棚に収納しておきます。この棚の高度理論的知識(「概念・コンセプト」など)は、「FW」として「知の構造」となっていますのでかなり膨大となっても収納できていますし、引き出すときも、関連がある糸口から次々と整理されたものが出てきます。

ここでこの「知の構造」となった段階を図で確認しておきましょう。

 

*「知の構造」☆ブログ用「思考力1の②シート」

 スライド7
(「説明」)・・私達の知識の認識は、そのことを「知ること」(事項認識)・「それらの関係を知ること」(関係認識)・「それらの構造の仕組みを理解すること」(構造認識)・「それらの構造の意味や価値を把握すること」(本質認識)となります。ここでの「構造認識」・「本質認識」は「FW」として活用できます。最初の関係認識ができるのは探究が行われ、事項の相互の関係を分析・分類するからです。そして、構造認識の段階では、帰納法的なやり方だけではなく、演繹法的なやり方である、他の「知のFW」からの援用(活用)も必要です。

 

◎学習プロセス・・その4「活用」・・FWの援用

・・「知ること」・「解ること」・「できること」・・このつながりが学習の本道です・・

さて、めでたく適切な「FW」をたくさん持つことができると、今度はそれを使う場面です。もちろん、その途中にも、現在の「FW」を修正・改善して新しい「FW」にしなくてはならないことも多くあります。というか、私達はいつも学習していますから、学びが深まると賢くなってきて、新しい「FW」を学ぶ機会もあります。また、そもそも全世界的に「FW」が変えられることもありますから。

そうして、より適切な「FW」を持ってくると、新しく出会ったことや知識に対して、その「FW」を適応して、それを解明・解決しようとします。これが「活用」の段階です。以前に提示した「学習プロセス図」では、右側の「下りの道」です。これは、「演繹法」(えんえき・deduce)という思考の道です。

・・「演繹法」とは、「繹」(糸巻き)から糸を「演」(引き出す)という意味で、「FW」のルールを引き出して、この事例に対してどう対応するかを考えることです。・・例えば、「空を飛ぶものが羽を持つ」のなら「あの飛んでいる虫も羽を持っているだろう」と推理することですし、「あの子は毎日朝食を取っているので、朝から元気だろう」と仮定すること、さらに「草冠に日・・このルールからすると、砂漠の『漠』は水が地下に隠れてしまうことなのか」と想定することです。・・もちろん、現実には、こんな単純な演繹の推理では解決できないことが多くて、何回もさまざまな「FW」の適用の仕方を考えてみることとなります。

そして、このような思考法ができることとなると、知識を学ぶ姿勢が違ってきます。そして、その知識を他の知識とつなげようとして共通の糸を発見し「FW」を作ろうとします。知の道は、単純な知識の暗記だけでは終わりません。その後の学習が大切です。ですから、学校授業でもこの段階に達した学習姿勢の生徒・学生はよく質問します。質問がないという人は、単純「習得」段階だということです。先のAさんも、学習とは「受容」(覚える)することであり、「問うこと」(「能動」)ではないと思っていたのです。もう少し早く、彼女がこの「学習のプロセス」を理解していれば良かったのにと悔やまれます。

・・10歳頃からは、学んだことを問いながら、考えながら、覚える頭になってきているのです・・学習の「コペルニクス的転回」の時です・・

Aさんが、学習を「3R」(受容)から「3X」(能動)へと展開できていればもっと学習効果が高まったのですが・・。

*「3R・3X」

☆ブログ用「思考力2①シート」

(「説明」)・・難しい表現がたくさんありますが・・「研修用講座のシート」ですので・・、でも、ここでは「習得」の3Rから、「探究・活用」になると「3X」(探究・表現・共有「相互交換」)になり、学習活動が能動的・深みになることで、自分で考えて解答を思いつく力が付くことを理解できればよしとしましょう。中でも、「探究」(explore)が思考力を伸ばします。(もし、さらにこの図で言葉が気になる方は第1部や第2部などを読んでください・・でもここでいくつか説明・・

*日本はこれまでのマネ時代から創造の時代に移り、それだけにも3R(先進国から学ぶ)にとどまっているわけにはいかないのです。

*TLはティーチ・ラーニングで教え・学ぶこと、ESはエデュケーション・スタディで自分の考えを引き出し・そのために学ぶことです。もちろん、ESの方が学習形態としては主体的で、学力も向上します。

*ロボット脳と人間脳とは、事項の積み上げからインプットされるだけのロボット脳と自分で構想「FWなど」を考えながらそこから事項を想定する演繹型の思考ができる人間脳との違いを述べたもの・・ただし、これからはロボット脳も演繹の思考ができて人間脳に近づいています・・構造認識にまでは達していますが本質認識にまではまだ達していないようです・・本質認識は意味や価値など主観的な要素が入り曖昧なものでもあるからですが・・でもいつかはここまで来るのも・・)

 

・・ここで、このブログは終わります・・中学生には難しかったと思いますが、でも、いつか2・3年後には学ぶことですから、早く賢くなったと思ってください・・

次のブログは、「活用」のための「FW」について考えてみましょう。